相関と因果
最近、「それは相関関係であって、因果関係ではないよ笑」という指摘をよく聞く。
この指摘自体は至極まっとうではあるのだけれど、では一体どうすれば相関から因果へと羽ばたいていけるのか。そもそも相関関係と因果関係はどう違うのか、なぜ相関関係よりも因果関係が喜ばれるのかを考えていく。
相関関係
まず、二つの変数の間に規則的な関係があるとき、これを「相関関係がある」といい、パターンとしては以下の2つが考えられる。
- 正の相関・・・一方が増えた時に、もう一方も増える ex)身長と体重
- 負の相関・・・一方が増えた時に、もう一方が減る ex)平均気温と年間積雪日数
ただし、変数間に一見、相関関係がみられても、それが第三の変数(潜在変数)による見せかけの相関関係であることがある。これを疑似相関という。これこそが、相関関係だけでは不十分だと言われるゆえんだ。
相関関係の分類
相関関係について、基本的な事柄をおさらいしたところで、次は分類をしてみよう。
高野・岡(2004)*1は、相関関係を因果関係という観点から、以下の5つに分類している。
変数Aと変数Bの間の相関関係の分類 1. 変数Aが原因、変数Bが結果 2. 相互的な因果関係 3. 変数Aが結果、変数Bが原因 4. 変数Cが原因、変数Aも変数Bもその結果 5. たんなる偶然
図にすると、こんな感じだ。
まず、想定していた因果関係①ではなく、相互的な因果関係②の可能性がある。
たとえば、GDPと初等・中等教育の普及率の相関関係。GDPの高い経済的に豊かな国では、教育設備を整えられ、子供は働かずに学校に通うことだできる。識字率は上がり、労働生産性が伸び、結果的にGDPを押し上げる。一方がもう一方の原因になるのではなく、両者ともが原因であり、結果である。「鶏が先か、卵が先か」のパターンだ。
他には、変数Aが原因で変数Bが引き起こされる①と考えていたが、実はその逆③がもっともらしいということがある。
たとえば、警察官が多い地域では、犯罪の発生件数が多い。だからといって、警察官が多い(原因)から、犯罪件数が多い(結果)というのはナンセンスだ。もちろん、警察官が多いことで、検挙数が増えるというのは考えられる。しかし、犯罪者がわざわざ警察官の多い地域に越してきて犯罪を犯すとは考えづらい。そんなことするのは、犯人の半沢さんくらいだ。「これが犯罪都市、米花町か」
なので、犯罪が多い(原因)ため、警察官が多い(結果)と考えるのが自然だろう。この関係を、正確な統計学の用語かは定かではないが、「逆の因果関係」と呼ばれるらしい。
ちなみに用語を導入しておくと、原因だと想定する変数を独立変数、または説明変数、結果だと想定する変数を従属変数、または目的変数という。様々な呼び方があるのは、対象とする領域によって思想や意義が異なるためだが、違いはないと思っていい。慣習みたいなものだ。
また、一見すると相関関係があるように見えても、実は変数AもBもほかの変数の結果③であるパターンがある。
有名な例でいうと、「アイスクリームの売り上げが増えると溺死事故が増える」という関係だ。いわずもがな、アイスクリームに人をおぼらせる力はなく、気温が上昇したことで、アイスを食べる人が増えたり、海やプールに行く人が増える。すでに触れたとおり、これを疑似相関というのだが、この言葉は少しややこしい。なぜかというと、関係のありそうな二変数を統計解析すると、実際に相関関係は現れるからだ。ここで大事なのは、「本当はこの二変数間に相関関係が存在しないのに、存在するように見えてしまう」ことではなくて、「二変数間には相関関係があるが、この相関関係はほかの要因(剰余変数、潜在変数)によってもたらされたものだ」ということを峻別することにある。つまり、変数Aと変数Bをもたらしたものが他にあるにもかかわらず、変数Aが原因だと推論(第一種の過誤)してしまうことに気をつけなけばならないということだ。これは交絡と呼ばれる。相関関係より因果関係が好ましいとされる一因がここにある。ほかにも、因果関係は人の思考に深く根ざしているからという理由もあるが、ここでは触れないほうがいいだろう。またの機会に。
それから、単なる偶然⑤というパターンもある。
たとえば、アメリカにおける政治資金の額と、スポーツの新記録を年ごとにプロットすると、「巨額の政治資金が使われた年には、新記録の数が多い」という関係が現れるようだ。こんな風に言われたら、陰謀論好きでもなくても政治資金がスポーツ界に流れているのではと勘繰ってしまう。だが実際は、「アメリカの大統領選挙と、オリンピックが同じ年に行われる」というだけなのだ。なので、去年はコロナの影響でオリンピックが開催されず、バイデンの勝利にのみが起こったので、この相関は見られないだろう。
以上が相関関係の分類だ。もう一度おさらいすると、以下の通り。
変数Aと変数Bの間の相関関係の分類 1. 変数Aが原因(=独立変数、説明変数)、変数Bが結果(=従属変数、目的変数) 2. 相互的な因果関係 (鶏が先か、卵が先か) 3. 変数Aが結果、変数Bが原因 (逆の相関関係) 4. 変数Cが原因(=第三の変数、潜在変数、剰余変数)、変数Aも変数Bもその結果 (疑似相関、交絡) 5. たんなる偶然
では、相関関係を見つけた後、因果関係を見抜くにはどうすればいいのかを見ていこう。
因果関係
因果関係を見極めることは、科学において最も重要といえるもので、16~17世紀に活躍したフランシス・ベーコン以来、多くの哲学者や科学者が喧々諤々の議論を交わしてきた。
その中でも、よく引き合いに出されるのが、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの提唱した、三つの原則だ。
- 原因は結果よりも時間的に先行していること
- 原因と結果が関連していること
- ほかの因果的説明が排除されていること
第1原則は因果の基本的性質であり,第2原則は相関の存在の有無を確かめる。第3原則は剰余変数の統制を意味する。因果関係の特定を目的とする実証実験では,このミルの3原則を満たす必要がある。
たとえば、心理学者アルバート・バンデューラが行った有名な実験、ボボ人形実験を例にとってみよう。
まず、実験的研究における、実証のロジック*2を確認すると、以下の通り。(観察的研究はまた異なる)
原因と仮定した変数を操作し、その結果となる変数を測定する。ほかの変数をコントロールした状態で、もし結果に変化があれば、その変化は独立変数の操作によって生じたと考えられる。つまり、操作した変数と測定した変数には因果関係があると判断できるというわけだ。簡単にいったが、そうは問屋が卸さないのが現実なのだが…。
ボボ人形実験の概要を上の図に当てはめると、下のようになる。
まず、実験参加者は3〜5歳の男子36名、女子36名の計72人。彼らは全員スタンフォード大学の保育園の生徒。
子どもたちをA、B、Cの3グループに24人ずつ割り振って実験が行われた。
Aグループ(実験群)の子どもたちには、ボボ人形に対して大人たちが攻撃的な行動(攻撃的なモデル)をとっている映像が見せられた。その映像の中では、大人がボボ人形を叩いたり、蹴ったり、罵声を浴びさせている様子が映っている。
Bグループ(対照群)の子どもたちには、ボボ人形に対して大人たちが攻撃的な様子を一切見せない(非攻撃的なモデル)映像が見せられた。大人たちはこの映像の中では他のおもちゃで遊んだり、静かに過ごしている。
Cグループ(対照群)の子どもたちには、何も映像を見せなかった。
その後、子どもたちをそれぞれボボ人形を含めたおもちゃがたくさんある部屋に入れ、観察した。
その結果、Aグループの子どもたちは、BグループやCグループに比べて、ボボ人形に対して攻撃的な言動が遥かに多いことが見受けられた。つまり、攻撃的な大人の言動を見たことが原因で、子供が攻撃的な言動をとるようになったという因果関係が導ける。
ちなみにボボ人形というのは、空気で膨らませたひょうたん型のビニール人形で、重心が下にあるので倒れない。何度でも起き上がるサンドバックだと思ってもらえればわかりやすいだろう。
ここで、ほかの因果関係を考えることができるかが問題になってくる。
たとえば、攻撃的な環境で育った子供はより攻撃的な言動を取ると仮定する。そして、対照群よりも実験群に攻撃的な環境で育った子供が偶然多くいた場合、映像を見たことが原因か判然としなくなる。ほかにも、異性の大人を見たことで性的興奮を覚え、攻撃性が増すなんてことも考えられる。
しかし、実際には、子供たちをグループに分けるときに、男女が半々になるように、それもランダム(無作為)に割り振り、映像に出てくる大人も、同性・異性が半分ずつになるように統制されている。そのため、実験群が攻撃的な環境で育った子供ばかりになることは可能性が低く、性別によるものでもなさそうだとわかるわけだ。
それでも、すべての可能性がつぶせるわけではない。たとえば、参加したのは3~5歳の子供だ。子供の攻撃性がこのころあいに増す傾向があるのかもしれない。よく、坊主にすると髪質が変わるというが、坊主にする人の多い時期が成長期と重なり、髪を剃ったことで髪質が変わったと感じられるだけだそうだ。これと同じようなことが起こっていたとしても不思議ではない。ほかにも、実験という非日常的な空間でストレスが溜まり、ボボを殴ってイライラを発散していたのかもしれない。
大切なのは、因果の推定は大変だということ。相関関係は比較的簡単に見つかる。しかし、そこから因果を推定するのは時間と労力が必要なのだ。
それでも、因果関係を探すことは大きな意味を持つ。それは、実証の過程でも出てきたように、操作によって結果を変えることができることだ。つまり、因果関係がわかってしまえば、望ましい結果を手に入れるために原因を操作すればいい。これは人類の根源的な欲求である十同時に、社会的な応用を考えれば大きな魅力を持つ。
だからこそ、因果の断定は慎重に慎重を期し、その応用範囲(外的妥当性)を明確にしなければならない。
こう考えていくと、「それは相関関係であって、因果関係ではないよね」と軽々しく言えないのではとも思ったりする。
5時まで15分
こんにちは
ななしです
僕たちは毎日のように言葉を話す。
誰かを褒めるために
誰かを貶すために
誰かに愛を伝えるために
口から出るものもあれば、こころの中で自分に語りかけたり考えたりするために使うものがある。
そして、国や文化、世代、地域によって使っている言語が違う
もし日常生活から切り離せない言語というものが僕たちの思考をつくりあげているとしたらどうだろう。
今日はそんなお話。
例えば、4:45のことをあなたはなんていうだろうか。
もちろん、そのまま4時45分だと表現するかもしれないし、あるいは5時15分前くらいなんてこともあるかもしれない。
英語では5時15分前なんて後ろ向きな言い方はしない。
あるとすれば、quarter to five(5時まで15分)という表現がある。
日本人はアメリカ人に比べ時間に厳しい。これは5時という未来の時間からみて今がどれくらい過去にあるかに基準を設ける時間感覚のせいかもしれない。
他にも、日本人は弟と兄、妹と姉を区別するが英語では両者とも一語に含まれる。
中国から渡来した当時最新文化である儒教の思想が色濃く残る日本ならではの言い回しなのだろう。
僕が個人的に面白いと思ったのが、パピヨン。
フランス語で蛾や蝶という意味だ。
あの可愛らしい小型犬は耳が蝶の羽のように見えるからこの名前が付けられているのだが、御察しの通り、日本では蛾と蝶は区別する。
蛾は気味悪がられたり、月と勘違いして電灯に魅せられた哀れな昆虫として見られる傍らで、蝶はひらひらと美しくその翅を羽ばたかせる。
しかし、生態や構造で彼等を生物学的に分類するのは意外にも難しい。当然、日常生活で一緒くたにしてもなんら問題はない。しかし、日本では分けて、フランスで同じにする。
このことが思考にどう影響を与えるかは分からないが、内言であれ外言であれ僕たちは言葉で思考し、言葉でコミュニケーションを取る。
現象の全てを把握するのではなく、いらない部分は捨てて、必要な部分だけを抜き出す。
言葉には世界を骨抜きにする。
だからこそその方法にはその人の、あるいは文化の歴史や癖が出る。
海外旅行に行って現地の人が世界をどんな風に見ているかを言葉から知ろうとするのは案外面白いかもしれない。
もし、彼らが何を言っているのかが理解できるのであればだが。
"英語で勉強"のイミ
こんにちは
ななしです。
今日は語学学習について考えるわけだけど御多分に漏れず着地点の見えない見切り発車だ。
日本人の中で英語の勉強が好きだという人間がどれくらいいるだろうか?
英語に限らず勉強は嫌いだという人が大半だと思うけれど、なかでも英語に苦手意識を持っている人は結構多い。
同じ嫌われ者の数学と比べ、学びたいという動機を持ちやすいのにも関わらず、何故か英語のできない人が多い。
もちろん日本の学校教育にも問題があるのだが、個人でできることの範囲ではないから今日は別の切り口で話そうと思う。
英語ができない理由、
それはずばり知識が足りていないから。
そんなの元も子もないだろ!とツッコミを受けるのは百も承知だが、そう思った出来事があったのだから仕方ない。
どういうことか、僕の実体験を通して説明する。
僕の趣味はクイズだ。
いま巷では空前のクイズブームで、僕も毎日のようにクイズノックの動画やアプリでオンライン対戦をしている。
そんなクイズ好きな僕は時たまではあるけれど、海外のクイズ番組をYouTubeで観る。
お気に入りは
イギリスの国営放送BBCがやってるUniversity challengeとアメリカ版高校生クイズ High school quiz showだ。
このあいだ、何も考えずにつれづれなるままにUniversity challengeをみていると、ひとつ気づいたことがあったのだ。
それは答えが分かるか予想できそうな問いは、問題文が理解できるが、自分の明るくないジャンルだとそもそも何が聞かれているかすら理解できないということだ。
これはとても不思議な経験だった。なにせ、クイズというのは何が問われているか理解し、そこから数多ある情報を取捨選択するものだと思っていたからだ。
おそらく、人間にクイズで勝った人工知能ワトソンはこの方式を採用しているのだろう。問題文に使われる単語やパターンを解析し、情報の海から最適解を確率的に割り出す。
しかし、僕らはワトソンの同じ方略をとるわけにはいかない。
というか絶対に無理。
そんなわけで、この経験から僕はひとつの結論に辿り着いた。
それは
日本語で知らないことは英語でも分からない。
当たり前だろと思うかもしれないけれど、英語に限らず語学を習得しようと思う段になると重要なことかもしれない。
大抵、英語を学ぶときは英語の単語や文法をひたすら詰め込む。だってその人の動機ときたら英語を話せるようになりたいなんて漠然としたものなのだから。
それではいつまでたっても上達しない。
言語はあくまで情報を取得したり共有するための道具であって、それ自体にあまり意味はない。
トンカチを買いに行って押入れに入れっぱなしにしてもお金の無駄だ。
柄を握りしめて釘を打たなきゃトンカチに存在意義はない。
まずは自分の知っていることを増やし、英語と並行して学習する。
ただそれだけでは、自分の世界から出られない。なので自分や世界が直面する問題やニュースを同時に学び、自分の得意分野と両側から掘り進めていく。
そんな砂場遊びみたいな勉強法が求められているのかもしれない。
今日も今日とて心理学。
そもそも心理学ってどんな学問?
こんにちは
ななしです。
心理学を学習していると明言すると、必ずといっていいほど言われることがある。
「じゃあ私が今なに考えているか当ててみて」「おれの心、お前に筒抜けじゃん」
「あそこ歩いている人の気持ち教えてよ」
「俺に彼女ができない理由を教えてくれ、、」
もちろん、心理学はそんなに万能ではない。
短くない歴史の箱をひっくり返せば、嘘発見器や性格検査など人のこころに肉薄しているように見えるものが沢山ある。
ただ、人の気持ちが手に取るように分かればなにも苦労はしないし、分かったら分かったでさぞつまらない人生だろう。
メンタリストのDaiGoやダレンブラウンのようにはいかない。
しかし、心理学を学んでいれば人の気持ちを掌握できると勘違いしてしまうことこそ、心理学の研究領域と言える。
ここで僕の結論を言うと、
心理学とは
目に見えること、ものから
目に見えないヒトのこころを科学的に推測する学問である
どういうことか。
人のこころは肉眼には見えない。顕微鏡を使おうとも望遠鏡を使おうとも見えない。
存在しているかも曖昧で、国や文化、往々にして個人によってもその定義はあやふや。
そこで心理学では目に見えないもの、
例えば
うつ病のなりやすさ
パーソナリティ
記憶力
を仮説的構成概念と呼ぶ。
そして、直接観察することのできる
行動(ex書く)や行動の結果(ex文章の内容)を頼りに推論する。
ここで注意すべきなのが、得られたデータから推論するときに、
恣意的な判断をするわけではなく、
推測統計学を使うということだ。
余談だが、心理学部に入った学生が一番苦しむのが統計の勉強だ。
人の心こころ学ぶのに、数学が必要になるなど露ほども思わなんだ。
それはさておき
最近では、心理学の教科者には必ず載っているような有名な実験の再現性が疑われている。
スタンフォード監獄実験なんかが一番有名だろう。
いつどこで誰がやっても同じ結果が得られるというのが科学研究では重要で、このように違う結果ぎ得られてしまうと信頼性はガタ落ちだ。
ただ、物理学や化学のように気圧や温度などの条件を操作できる自然科学とは違う。
心理学では性別や年齢だけでなく、時代やその日の天候、実験者の気分など目に見えない変数が無数に存在する。
これらは剰余変数という。
操作する変数やそれによって得られる結果にだけ注目するのではなく、あらゆることが繋がりあっていることを忘れてはならない。
まるで仏教の縁起の考え方。
心理学を学ぶときは、
その科学的な限界と
自分の人生を豊かにする可能性とを念頭に取り組んでいただきたい。
今日も今日とて心理学。
ななし
サイゼリアの間違い探しはなぜ人気なの?
三度の飯より心理学。
どうもナナシです。
老若男女問わず人気のイタリアンレストラン、サイゼリア。
安価なメニューで味もいい、当然のように平日のお昼時には制服を着た高校生が行列をなしていることもしばしばだ。
おまえら、学校はどうした。
それはさておき、最近のサイゼリアではミラノ風ドリアでもアーリオ・オーリオでもなく、別のものがネット上で話題になっている。
そう、キッズメニューの表紙に描かれている間違い探し。
見開きで左右のページにかわいらしい絵がそれぞれ載っていて、間違いの数がぜんぶで10個となかなかボリューミー。
にもかかわらず、気づいたらついついやっていてしまっていたり、子供向けとは思えない難易度に意固地になって昼飯だけでなく夕飯も食べていく羽目になったりと、その中毒性は経験した人ならうなずいてくれるだろう。
しかし、なぜあのような単純な遊びが話題を呼んだのか?
なぜ無意識にのめりこんでしまうのか?
心理学の概念を利用しつつ、生活の肥やしにできるよう
個人的に考察していく。
活性化エネルギーが小さい
まず一つ言えるのは、あのクイズが一見簡単に見えるということだ。
人は与えられた問題や課題がじぶんの実力や状況とあまりにもかけ離れていると、そもそも行動を起こそうとも思わない。
あさ、布団から出るのが億劫になるのも、眠りから覚めたばかりの脳には起き上がるという行為ですら相当なエネルギーを要するからだ。
だから、まずは目を開ける、次に手や足を握ったり開いたりする。それから足先を布団から出す。そして布団から全身を出し立ち上がる。といった具合にハードルの低い行動から階段を上るように目標に近づくようにすれば、自ら望んだ行動ができる。
サイゼリアの間違い探しも、子供用に作られたという先入観からおそらく簡単であろうと挑戦する。実際、最初の5,6つはすぐに見つかるし、時間をかければ8,9つはだれでも見つけることができるだろう。
これは化学における活性化エネルギーの考え方によく似ているので、ぼくは勝手に心的活性化エネルギーなんて呼んでいる(中二病臭い)。
化学における活性化エネルギーとは、反応物が基底状態から遷移状態に励起するために必要なエネルギーのこと。
難しいかもしれないが、要するに反応物が行動前の自分で、反応物が行動を起こす自分。この行動を起こすために必要な状態になるために必要なのが、活性化エネルギー。
日常生活でも使われる触媒は、この活性化エネルギーを下げる効果のある物質を指す。
サイゼリアのロミオとジュリエット
次に考えられるのは、最後の間違いを見つけ出すのがかなりむずかしいということ。
いざ間違いを探しはじめたはいいが、なかなか10個すべてが見つからない。
泣く泣くネットで答えをカンニングしてみると、まるで視力検査のような場所にあったりする。
こんなのわかるわけないだろ……。
これは社会心理学でいうところのロミオとジュリエット効果に似ている。
親の反対などの障壁が恋愛感情をより加速させるというものだ。
これは人間関係、ことに恋愛について使われる用語だが、対象もしくは目標をパートナーとしてみても成り立つ。
障壁が高ければ高いほど燃えるということだ。
しかし、初めから難しいのではやる気は起きない。
ロミオとジュリエットも舞踏会でひとめぼれ。しかし、キャピレット家とモンタギュー家の古くからの怨恨(ancient arudge)がふたりの邪魔をする。そんな障害が二人の関係をより強固にし逢瀬を重ねる。さいごは悲劇のバットエンド…
初めは簡単に、そして徐々に難しく。
これをうまく利用しているのがゲームだ。
スマホにしろ据え置きにしろ、ゲームは人に長くプレイしてもらうためにあらゆる工夫がなされている。
ポケモンしかりスーパーマリオしかり、はじめのステージの難易度はかなりやさしめに設定してありグラフィックも目を引く。そのため始めるためのエネルギーが少なくてすむ。そしていくつかのステージをクリアすることで達成感(報酬系)が刺激される。さらに難しいステージでは、何度も失敗しながらもここまでやったのだからさいごまでやり通すという気持ちが起きる。特にマリオでは、そのゲーム性ゆえに成功よりも失敗のほうがおおくなるよう設定されている。
当たり前なようだが、これは何かを達成しようという人は忘れてはならないことだろう。
いきなり大事をなそうとしてはいけない。
成功できない人間は、成功者の積み上げた努力を想像できないから成功できないのだ、とぼくの好きなアニメのキャラクターもいっていたことだ。
ツァイガルニク効果
最後に考えられるのが、難しすぎて途中でやめた場合、その記憶は頭に残りやすいということだ。
これをツァイガルニク効果という。
旧ソ連の女性心理学者、ブルーマ・ツァイガルニクが実験を行い、完了された課題よりも中断された課題のほうが思い出しやすいという結果を実証したので、彼女の名前をとった効果が提唱された。
この現象は日常生活でもよく見られる。
例えば、テレビドラマ。
毎回のごとく終盤になるとトラブルがおきて後味の悪いまま、このままではどうなってしまうの、次回へ続く!となる。
いわゆるクリフハンガーといわれる手法で、まさに興味を宙ぶらりにされた状態で放置されるのだ。(けっしてSASUKEの種目じゃないよ)
逆にこの傾向を利用して自分の生活をコントロールすることもできる。
例えば、勉強や読書はキリのいいところでやめない。
時間に追われる現代日本において、一冊600ページもある分厚い参考書みたいな本を一度に読み通すのは無理だろう。
かといって何週間にも分割して読んでいると、内容の流れを終えなくなって途中で断念してしまう。そして、読むのをやめてしまった記憶だけがひとりあるきしていく。
こんな負のサイクルを防ぐために、ドラマのクリフハンガーのように、興味のある面白そうなところであえて本を閉じてみる。
そうすることで続きが気になり、本を開くための心的活性化エネルギーが小さくて済む。
ほかにはこんな例もある。
自分の悩みを文章におこしてみる、というやつだ。
関係ないだろと思われるかもしれないが、悩みや不安というのはたいてい今すぐどうにかできないものに対して抱く漠然とした恐怖のこと。
その曖昧模糊とした問題を書き出してあげることで、頭の中で宙ぶらりになっていた不安が仮の形だが完了される。
脳にとっては終わったこととして認知されるので、不安が緩和されるのだ。
ほかにも、自分の夢を人に言わない、というのもある。
これはどういうことかというと、自分の夢というのは、理想の自分ということもできる。そこに至るためには現実の自分とのギャップを認め、努力しなければならない。
しかし、自分の夢を他人に話すことで、脳ではそれが達成されたことだと考える。もう完成されたことであり、忘れてもいいのだと考える。
そのため努力を怠りプライドだけが増大していく。
なんとも耳が痛い話だ。
だいぶと脱線してしまったが、このツァイガルニク効果がいかに僕たちの生活と密接にかかわっているかがわかるだろう。
今回のことから得られる教訓
サイゼリアの間違い探しからいろいろと枝葉を伸ばし考えてきたが、そこから得られる教訓は次のようなものだろう。
初めはやさしく、徐々にむずかしく。
障害があるほど燃える。
続けるためにあえて途中でやめる。
読んでくれている人がいることを願って
今日も今日とて心理学。
ありがとうございました